「迷惑」という自覚と贖罪の出どころ

昨日から、父方の叔父の家に行っていました。

いろいろ祖父母の関係でつもる話もあったし、実のところ、叔父の家に親父を挟まず自分単独で行ったことがなかったので、いい加減そういう壁は取り払っておきたかったし、
更に踏み込むと、後悔の無い道を行きたいなんていうちょっと観念的というか壮大な感覚もあったからです。

というのも、
僕はこれまで「子供時代にかけられた管理者の呪い」が強くて、何に付けても罪悪感に苛まれ、「僕は人に迷惑をかけるので"自由"は禁止」という前提をもう無意識レベルで持っていて、
その中でも「僕という生き物がよその家に行く」というのは特に迷惑度合が高く罪の重い行為だったので、
自分ではない断罪権を持つ何者かの「やめろ」というめちゃめちゃ強烈な圧力が、瞬間的に働いてブレーキがかかるものだったのです。

「遠慮」「諦め」の二文字であらわせる子供でした。
その頃の「充ち足りない自分」を解決できないままごまかして生きてきた結果がこれだよ。


今なら、
「祖母も母も父もいわゆるおとなの発達障害、または人格障害ないし脳味噌溶けたアル中ってやつで、そういう世界の住人が自分の人間的非充足感を子供(ペットと分身の中間のような立場の存在)に投影した場合、ああなる」
と、事実も含めそうとらえる事ができるので、あの呪いから脱却しつつあると言えます。


僕は、実は他人に迷惑をかけてよかったんですよ。

なぜなら、
まず、僕一人が他人にかける迷惑やそれによる犠牲というのはたかが知れているから。
そして、迷惑とは罪ではないから。
更に、僕は人からかけられた「迷惑とやら」を迷惑と思わなかった事のほうが多いから。
重ねて、迷惑というのは実は大人が子供に言いきかせる内容ほどには、範囲の広いものではないから。


僕はおとなに、いちびられていたんです。

僕が僕という1人の人間であり自由な存在であることに対して、ムカついたり理解できない人がいて、その人達がそのムカつきを感じるたびにいちびられていたわけです。
そして、僕をいちびらない人たちと距離を置くよう、判断力の弱い子供のうちに言い聞かせていたわけです。
それは彼ら自身も自覚の無い無意識の行為で、本人にも止めようがなかったでしょう。
人間の発達・成熟度というのは、発言・行動や状況に対しての自覚の割合で測れると僕は思います。
でも、このように生きたサンドバッグを製造していたことは、事実上の結果であって、甘んじなければ罪悪感を感じるように子供を洗脳する事は、可能だし、何をどうするかをさておけば教育とは言いかえれば「洗脳」の事です。
自分の意にそぐわないものをボコボコにする行為は、当然どころか正当性も妥当性も合理性もない、選択肢として分不相応な行為です。

「おまえはもうとにかく「迷惑」ったら「迷惑」なやつだから支配されて当然だし逆らったらどうなるかわかってんな?」
なんていう無意識にまで刻まれた呪いを断ち切れば、人間これほどまでに清々しいのかと思うと、苦笑いも出ようというものですよ。


叔父もまた、子供の頃から親父(叔父から見た兄)や祖母(叔父から見た母親)におなじような理由で苦しんだ人間なので、要所要所でシンパシーは強いです。





それはそれとして、

日帰りで行ってくるつもりが、食卓を囲んで泊まってお土産を持って帰るという予想GUYの展開で、いろいろと得るものがありました。
予定はカツカツになったけど、多少遅れたところで日程的に手遅れ直前になるまで返事をしない人に遅くなった責任は取ってもらうってことで。
使われる身分で言うのもなんだけど、持ちかける側にも職責ってものがあってですね・・・