インプットばかりでアウトプットが足りない

「インプットばかりでアウトプットが足りない」、
これ、ここずいぶん、
「最近知ったことを実践する」という部分に比重を置きすぎて、いろいろと置き去りにしてました。それイコールアウトプット、と定義していれば当然、それまでの「アウトプット」に当たる行動は、表面上否定されます。こころが悲鳴を上げるわけです。何かを作るっていうのは、呼吸と同じで、粋がってかっこつけるものではないけど、周囲そういう方々(変に才能って言葉を使ったり、ひとに不自然なヨイショ系特別視して"みせ"たりね)を見続けた最近、僕も何かを作るってことをしている=粋がってかっこつけてる人間なのかな、と感じる部分があって、別に作る=ポーザーなんてそんなことはあり得ないんだけど、悪いほうに感化されてしまっていたのでした。

これは僕が決めることじゃないけど「それ本体はカネにならない」そういう、文章なり他の何なりの排泄物があります、
Pixivとかピアプロとかニコニコとかユーストで垂れ流されてる個人の制作物や放送の多くがそれですわね。ここでいうそれらは、「一部の、運よく根気よく流通にのったごく一部の例外」は除外します。勝率から出すべき戦略の無い、例外注視の寝言話はしてないので。

で、それをやるのは、非生産的?無駄なの?

・・・そんなはずはない。

テキストエディタに打つべき文章は、ほかにもいくらでもあるでしょうよ。
勢いで書き上げた盤上でおわる戦争ゲームのルールは、無駄ですか?
お金にし「なきゃ」無駄ですか?

いちいち口をはさむ知ったか顔が、何名かいるのです。
それを、いや俺の自由だから、と割って切れない自分にようやく思い至って、
いや、それおれの自由じゃん何引きずられてんの?wと意識に上ったわけです。

人と人はいやでも影響しあいます、だから付き合う人間は選べというのです。
他の何を惜しんでも、人間だけは、もったいながってはいけません。
死にたくなくば、それが首輪をつけない生き方の鉄板ルールです。

好き勝手やった自分自身に、自分で責任を持つ限りは、好き勝手やりゃあいい。
かけた迷惑を回収しつつね。

選択肢をより多く持つ人間が、あらゆるシーンにおいて、より主導権を持つ握るのは、僕が知るうちこの人間社会(恐らく日本以外でも通用する)で3つめにシンプルな因果です。



資金資産、金銭的利益、になることを前提に動くのは、通貨社会で生きる限りは当然のことです。


でも、それ以外はしない、というのは、僕には違和感がある。中世の音楽かにパトロンが着いたのはなぜ?というはなしともリンクします。

カネになることを前提にしないアウトプットをしばらく忘れてたというか、見ないことにしてたなあと、ちょっと、昔自分が作ってきたものに久しぶりに触れて思いました。でそれを黒歴史だとは決して思わなかった。
僕の作ったものは、自分以外触れた誰も得しないけれど、毎日食事をすることを恥ずべきことと思わないのと同じで、PCの前に座ったらすることって、習慣としか言いようが無い。

飯毎日食ってることでドヤることがあるとしたら、飯毎日食わないのが当然の世界の出来事であって、
自然にすることを特に特別視はしないです。
ちなみに僕は一日三食食わないですが、3食食ってるか聞かれたときにいや別にと言ったら言ったで、それは良くないことだと、一日3食食べるのが人間で、そういうものなのだと、諭されます。

食わないことでニヒルぶってるわけではなく、食いたいと思わないときに胃にもの詰め込んで強制的に、肉体的に、ぼんやりするのが好きじゃないだけで、食い方ではなく、食ってるものの内訳として「あまり身体の中に砂糖ばかり詰め込むんじゃないよ」なら説得の内容としては、ぐっと胸を抑える程度に分かります。


青年誌的ナルシズムは、フィクションとして、遠い世界の、あまり興奮しないエンタメの中の一つとして読む分にはいいけど、リアルなその場で説教として使われると本当に反吐が出るのです。




そうそう。

この雑記自体、懐かしのライコス日記でシコシコ毎日書いてた頃から、そういう「何にもならない、無駄な」アウトプットのためにあるから、誰得アウトプット100%生絞りだったのです。


そう、視認からはじまるんだから、支離滅裂でもいいのよ。ほんと。




僕を哲学的とか思想がどうとか評価してくださった方がたがいましたが
違います、そういうものの見方を、
お花畑というんです、かっこつけだというんです。
残念ながら、僕は高尚なあなたの同志ではない。強いて言うなら個人です。

僕はただ、そういう"め"にあっただけで、体験談を交え会話をしただけで、
思考だの思想だの意識だの、そういう高尚なものではないのです。

ただ、知識だとは言えます。痛い目を見るたびに、嫌な思いをするたびに、囚われやすい僕は本から知識を文字通り貪ったからです。人間に相談すると、くその上塗りをされる確率が異常に高すぎて、感情の挟まらない本を頼ったわけです。
図書館ですら情報は玉石混交で、囚われているうちは関連書籍は目の前にある全部片っ端から目を通しているので、ある程度知識が体系だちます。
だから、一冊のライトなビジネス書でわかった気になって説教にその内容を使う人(引用ではなく、まるで自分の意見として上から)が、むかつくのです。その延長戦で、僕ができることは、言いくるめです。


体験の一つを言うなら、

僕に勝手に向けられた色恋感情を放置したら、あとつけられて家宅侵入されました、その事実を他人は信じないけど、家族とは未だにネタにします、追い返したのは弟だからです。
「・・・どちらさまですか?」「ーーさんいますか?」このやりとりは今だからギャグ扱いで笑えます。呼び鈴壊されてんだからほんとは笑えない話です。

そして、そういうののやっちゃいけない法的線引きとか、二次被害とは何か?何をすべきだったかを、知識として知りました。貪ったおかげです。


そういうのをベースにしたいろんな脳内の言葉を、
遭えばわかる、遭わせてやりたい、そう考えるのは、呪詛だから、
目の前の他人には向けずここに書くんです。