視野とポテンシャル

僕はWindowsが好きです。カスタマイズできるものが大好きだからです。
でもMac系製品も欲しいです。僕は「Mac」というコンセプトはあまり好きではありませんが、Mac系製品向けに展開される独自サービスは欲しいです。
iPhoneを持っていないと手に入らない、そこにしか配信する気の無いコンテンツは山とありますし、クリエイティブを邪魔しない思想に関しては好きだからです。


ハード、つまりアクセス媒体が変われば触れられるものが
触れられるものが変われば、視野が変わります。
視野が変われば、世界が変わります。

両方持てば、可能性が広がります。
可能性が広がれば、視野が広がります。
視野が広がれば、世界が広がります。

もちろんかぶるところもあるでしょう。
でも、ほとんどすべてがドンかぶりでもしていない限りは、両面を手に入れない事はもったいないことです。


さて、
僕は昔、オカネというものを持っていませんでした。

好きな事が出来たとか出来なかったとかそういうんじゃないです。
好きな事と言うだけなら想像力だけでいくらでも何とかなりました。

紙なら、園や学校でそれなりにたくさん貰えますからね。


ただ、目の前にぶら下がっている 「可 能 性」 を、
文字通り総スルーしなければならない事が苦しかったんです。

総スルー「した」じゃないんです。スルーせ「ざるをえなかった」んです。
悲しい事にすでに当時の僕は、犯罪を犯罪であると、犯罪とはどういうものなのかを知ってしまっていました。なので、「盗んででも手に入れる」という新しい可能性への道は行使しませんでした。それは選んだ行動ですが、そこで盗むという道を選ばなかった事を責めるのはサイコパスくらいでしょう。しかし、盗まない限り手に入れることは不可能でした。

ここで問題があります。
子供のうちから可能性の芽を摘まず何か上達しようと思ったら、
専門の道具が必要ですよね。

イメトレ(無料)でヴァイオリンは上達しません。両手弾きで自在にピアノが弾けるでしょうか?
紙だけでトライ&エラー無しにプログラムが組めるようになりますか?
念じただけで柔軟で自在なフォームでボールが投げられるでしょうか?
集団プレイをイメトレだけでやるのは困難です。

専門の道具や環境は必要です。
で、そこにはオカネがかかるんです。

僕は、小遣いゼロで、足の踏み場もない家の中にたまに親の部屋に無造作に落ちている1円とか5円の小銭をかき集めて、弟と10円の駄菓子を買って分けるのが週一くらいの楽しみでした(それもまあ、ひとつの窃盗ですけど)が、
それだって、お金を集めて作った楽しみの可能性のひとつです。


どういうことか?

つまるところ、可能性は閉じるものではない、という一般論のおはなしです。
可能性とは視野です。

お金という名前の「選択権」がそこに大きく絡んできますが、
選択権に縛られるとはいえ、可能性が広がれば視野が広がります。

視野が狭いって言うのはですね、
「しなければならない」に支配された世界に生きるということです。


それは、
とても苦しい事ですね。