空気が動く

9月に入ってから、ほとんどをミーティングルームで過ごしています。
主に、妹に貸したままもう2年が経とうとしているMRをそろそろ返して貰いたかったのと、ミーティングルームとその部屋がある家の掃除と、CDや画集など保存したいものを運び込むためです。
9月の初秋頭ごろからここ、完全にダラけた、グウタラのための配置としか言いようのない状態になった部屋を徹底的に叩き直しています。
そもそも、僕は自分の作業部屋をニンゲンの巣から作業部屋に戻したい。ここは本来一人になって静かに考えられる場所でした。実家では「生活」の義務感に追われ、弟に粘着されます。出ていく体力もありません。体力を養う場が必要です。
そして、僕は、ひとりになれないと本当にものをつくれなくなってしまいます。
この3年で何も浮かばなくなって、他人との交流も散漫になって、精神が悲鳴を上げて行き場も分からなくなってどうしようもなくなり、それを嫌というほど痛感したというのに。

とりあえず動きだしはしました。
彼らは、今の状態を自分自身のこころの働きやありようによってなされたものだと思っているように見えますが、結局僕がそこに介入しないとほとんど何も動くことがなかったのです。
口は立派に高い理想を語り、高尚で具体的な(でも現実にはぼんやりした)法則性や理由があるのだといい、壁の存在を余所に押し付け、動く理由を外に求め、外の世界を悪く言い、受動的に能動を装っていました。
短絡的にいえば、彼らはみんな、ひとのせいにして自分からは動かなかったのです。

僕が介入しただけでこれほど進むのなら、実際大したことではありません。
それが、目をそらしてやらなかっただけなのです。
僕も、そのままにして甘やかし過ぎたとは思います。

無意識だろうし目をそらしたいだろうと思うので、あまり口に出して言いたい事ではないんですが、弟にしても、妹にしても、寄生できて当然という感覚を捨てて、感性を「自立」に向けてほしいです。
「なんでもじぶんでやる」みたいな幼稚な主張や意識を持つ事が僕のいうそれなんじゃないです。
そもそも、なんでもじぶんでやりたいひとは、多くのことを「自分で出来ない」と始めの一秒未満で判断して、それを誰かに押し付けてその場で忘れ去ります。
その「奪える」「自分のもの」「人も物も、勝手無造作に扱ってよい」という、自分本位な世界観が、自立できない人間のすることだと言ってるんです。